鈴木長十

Last-modified: Thu, 23 Nov 2023 20:06:04 JST (147d)
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鈴木長十(すずきちょうじゅう -1979年8月2日)は、元駿台高等予備校(現 駿台予備学校)学長。元駿台高等予備校英語科講師。初代英語科主任。

経歴 Edit

  • 東京高等師範学校*1英語教員養成科卒業。
  • 元 旧制駒込中学校*2教師。
  • 1939年、駿台高等予備校英語科講師。
  • 1979年、肺がんで死去。

授業 Edit

  • 一礼の後、開始5分はひたすら黙々と筆記体で板書して始まる。
  • 「はいこちら」と言って英文を一通り解説したら、最後に和訳するの繰り返し。
    • 示される和訳は綺麗であった。
    • 要点はいくつか板書されるが、基本は短い文章を訳していく。
  • 上から矢印、下から矢印など特徴的な表現が多かった。
  • 4月の最初の授業で、初めの5分ぐらいイスに座ったまま沈黙していた。

人物 Edit

  • 東京高等師範学校卒業後、旧制駒込中学の英語講師をする傍ら、駿台で講師をしていた岡田實麿師の手伝いをしていた。
  • 1939年に岡田が病気で講義を休むようになると代講として出講するようになり、後に専任講師となった。
  • 講師になってからは、徹底的な教材研究・下調べ・独特の教授法で、瞬く間に生徒の人気を得た。また予備校講師の傍ら、講師として大学へ出講していた。
  • また多くの参考書も手がけ、晩年は駿台の学長に就いた。
  • 1979年に肺癌で死去(74歳)。後任の英語科主任には伊藤和夫師が就任した。
  • 伊藤和夫と共に執筆した『基本英文700選』は往年の受験生(1970年代 - 1980年代)に広く使われ、親しまれていた。
  • 戦時下に出兵した経験があり、生前の講義では弾丸が頭をかすめた話で50分もってしまうというもの凄い話術だったらしい。
  • 「田舎の学校ではこう訳す。都会の学校ではこう訳す。」(栃木の方言で)と言って生徒の訳を「田舎訳」と言ってけなしていた。
  • 大島師が浪人時代に教わっていたときのことを時々雑談として話す。
    • 雲と鹿野と齋藤英を足して割らないくらい怖かったとのこと。また、伊藤和夫以上に怖さと影響力があったとのこと。(雲師とヒデはともかく鹿野師は怖いだろうか…?鹿野師は見た目と雰囲気か怖いので入れたのかも…?)
    • 別の年度では雲と勝田とヒデを足して割らないくらい怖かったと言ってた。怖さが増してないかい?大島師によると「長十に質問にいくバカがいた」とのこと。当時の駿台は質問に行けない雰囲気があったそうな。ちなみに師は浪人時代に講師室に入ったことがない。ちなみに質問に行った1人に若かりし現東進の今井宏がいたとのこと。その今井宏鈴木長十との思い出を語った動画がこちら。https://youtu.be/gt6Ve8h5GeY?si=yj16RJlRYO0Rupht
  • 自分より後から入ってくる生徒がいたときは授業をとりやめ、4週ほど授業を行わなかった。
    • テキストの文章は全て頭に入っており、質問のあったページのwithが他のページのなん行目のwithと一緒かを瞬時に答えたとの事。
      • 似たような事を大島師も行う。
  • 4週休んだ分は全部1コマで話した
  • 灘高出身者が「高校で習った内容と違う」と質問すると「田舎は相手じゃないの」といった。(2013年、大宮での語法と読解にて大島師談)古文科のU師もそのような対応をされたと
    語っていた。
  • 板書の内容を説明しないまま授業を終えることもあり、大島師が隣の席の三浪の人に聞くと「あーこれ一昨年は説明していたんだよ。」と言われたそう。
  • 予備校講師の中で彼の授業を受けた者も多い。
    • 特に今井宏師の口癖の「てんてんぷるぷる」等は元々鈴木の口癖であったものである。
  • 秋澤師曰く「長十さん、すごいんです。授業をしないんです。」
  • 伊藤和夫の著書『英語構文詳解』の序文を寄稿している
  • A is no more B than C is D. の比較表現を「クジラの構文」として紹介したとされている。

 私は東京高師(現在の東京教育大)の英語教員養成科を卒業し、旧制中学の英語教師をしていた。

そんな私のところに、あるとき、受験界の大御所、英語岡田實麿先生から、人づてに、「出版社から英習字本を頼まれたが、やってみないか」と言って来て下さった。弱輩の私に出来るかな、という不安もあったが、よい経験にもなると思ってお引き受けした。この本がよく売れて、6、7年間、私も印税の半分をいただいたものである。

 これが縁で、私は岡田先生の教科書や参考書の仕事を手伝うようになり、いつしか、先生が忙しいときなどに、この予備校で代講を勤めるようになった。確か昭和14年ごろのことである。その後しばらくして、私は中学教師をやめて、予備校の専任教師になったのである。

 [注]

  本文は故鈴木長十先生が昭和42年ごろ書かれた原稿です。

発言録 Edit

  • 「君たちは〜、隣の駅弁大学なんぞに入ってはなりまっせん!」
  • 「このlifeという単語だが、生活に疲れている人に限って、life=生活!といいます。ここでは、集合名詞で生物という意味です。だって生物には、猿やヘビやカエルや、君達がいるだろ」
  • 「授業をやっても楽しいクラスとそうでないクラスがあります。明日はあのクラスかあ、嫌だなというクラスもあれば(笑い)、別に君達の事を言っているんじゃないよ。隣だよ、隣のクラス
  • 師「田舎の学校ではこう訳す、都会の学校ではこう訳す。」(栃木弁で)
    師「君の学校は?」
    生徒「浦和高校です。」
    師「田舎の学校だ!」
    生徒「・・・・・」
    師「でも浦和高校の生徒は数学ができるからね!」(とフォローにならないフォロー)
  • 「売られた喧嘩は買わねばならぬ」
  • 「医者と先生にだけはなるな!」(冗談混じりに)
  • 「せっかく東京に出てきたんだから東京の訳し方を覚えて帰りなさい。…東北には東北大学という立派な大学があるじゃないか。なんで、みんな東京に出てくるんだろう」
  • 「君達を見ていると、昔まだ私が下層階級にいた頃を思い出すよ。…男が一晩遊ぶのに5万じゃ、うどんを食うくらいしか出来ない。やっぱり、10万くらいなきゃな」
  • 「むかし、まだ学生の頃、英語の本を読んでいたら知らない単語が出てきました。だめだな、まだまだだなって思いました」
  • 「勉強がいやなら、オートバイでも買ってもらえ。勇壮だもんな」

著作 Edit

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*1 現・筑波大学
*2 現・駒込中学校・高等学校