渥美文夫
Last-modified: Sun, 25 Sep 2022 01:41:49 JST (579d)
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渥美文夫(あつみ ふみお)は、元駿台予備学校数学科・論文科講師。新左翼活動家。
経歴
- 1940年、大阪府生まれ。
- 1961年、京都大学同学会中央執行委員長。
- 京都大学経済学部卒業。
- 1968年、共産主義者同盟(二次ブント)第八回大会書記長。
授業
- 板書するスピードが早い。
- 年を取ってくるとボソボソと聞こえ辛い部分があった。
- 授業中にハゲは帰納法では証明出来ないと言ったことも。
- 「ハゲ=1人 ・・・(*) ハゲ=k人のとき(*)が成り立つとすると、k+1人目もハゲか?そんなわけないやろ?なぁ。」
- 板書の文字が異常に小さい。
- 生徒に直々に指摘されたこともあった。指摘後は意識的に大きく文字を書くようになったが、数分すると結局小さくなっていた。
- 説明中一人で笑っている事があったが、声が小さいこともあり、何が面白いかが分からないことがあった。
担当授業
人物
- 数学科と論文科を兼任した珍しい講師。
- どちらかといえば論文の授業の方が評判は良かった。
- 感嘆するように「はぁ」と呟くことが多かった。
- 生粋の左翼活動家。山本義隆師、最首悟師以上に息の長い、そして全国的な運動の中心であった。
- 赤軍派議長として著名な故・塩見孝也氏とは親友であった。京大在学中から関西ブントで活動を行い、共産主義者同盟再建を二人で主導する。二次ブントと呼ばれるこの団体は、全学共闘会議の母体の一つとなる。
- しかし羽田闘争や東大闘争を経るにつれ、武装蜂起を主張する塩見一派とは対立。新左翼運動で初めて内ゲバの死者を出した七・六事件を契機に、渥美師は袂を別つこととなった。渥美師と別れた塩見氏は、共産主義者同盟赤軍派を率いて大菩薩峠事件やよど号ハイジャックへと歩んでいくのである。
著作
- 「金日成・金正日体制と東アジア」(現代企画室、2007年)
- 「排外愛国のナショナリズム 1930年代を振り返る」(世界書院、2013年)
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