伊藤和夫 のバックアップの現在との差分(No.9)



伊藤 和夫(いとう かずお、1927年?月?日 - 1997年1月21日)は、元駿台予備学校英語科講師、同主任。学校法人駿河台学園理事、駿河台大学理事、客員教授。長野県出身。『基本英文700選』、『英文解釈教室』、『ビジュアル英文解釈』などの英語参考書で知られ、「受験英語の神様」、「受験英語界の巨人」とも呼ばれる。

伊藤和夫(いとう かずお)は、元駿台予備学校英語科講師、同主任(1979-1991)。学校法人駿河台学園理事、駿河台大学理事、客員教授。

経歴 Edit

  • 1944年、旧制東京都立第五中学校卒業。
  • 同年、旧制第一高等学校(新制東京大学教養学部の前身校の一つ)を受験。
    • 太平洋戦争が最も激しかった時期で、旧制高校の入試史上唯一の受験科目から英語が削除された年であった。受験英語に一生を捧げるようになった師ではあるが、自身は入試科目で英語を受験せずに新制東京大学教養学部の前身校に入学したことになる。
  • 1927年、長野県生まれ。
  • 1944年、旧制東京府立第五中学校*1卒業。
  • 1944年、旧制第一高等学校入学。
  • 1953年、東京大学文学部西洋哲学科卒業。
    • 卒業論文はスピノザの「エチカ」。
  • 1954年、横浜の山手英学院で英語科講師として勤務。
  • 1966年4月、奥井潔師の紹介で駿台予備学校英語科へ移籍。以後、専任講師として1990年代中盤まで勤務。英語科主任、学校法人駿河台学園理事などを歴任。
  • 1997年、死去。

構文主義 Edit

  • 英文法の枠組を英文解釈に利用可能な形で取り入れた読解法は「構文主義」と呼ばれ、受験英語界(特に駿台予備学校英語科)の伝統となった。
    • 1970年代から1980年代の受験界では「『基本英文700選』を暗記すれば、わからない英文はなくなる」と言われ、1980年代後半の受験生の姿を描いた『七帝柔道記』には「合格者のほぼ全員が『英文解釈教室』を使っていた」と伊藤和夫の名が実名で登場しており、いかに受験生の間で伊藤が巨大な存在だったかがわかる。現在の高校や予備校の英語教師の中にも彼の影響下にある者は少なくない。なお、ここで言う「構文主義」とは「くじら構文」や「so~that構文」などではなく、単語・熟語の枠を超え、文という単位で英語を理解しようとする姿勢のことである。
  • 「直読直解」を目指しており、予測と修正という考えによって、返り読みは否定。品詞分解はある程度は必要悪として認めていたが、英文の原型が分からなくなるほど文を細切りにすることには否定的であった。

逸話 Edit

  • 派手なことは嫌いだが子供っぽいところ(純心)があった。
  • 秋山仁師とよく飲みに行った新宿歌舞伎町の奥の飲み屋があった。
  • 信頼できる人にしか心を許さないところがあった。
  • 駿台に引っ張ってきた奥井師ら少数の優秀な講師と仲が良く、真面目で勘の鋭い生徒を好んでいた。
  • 思慮の浅い質問を嫌う点は教師というよりは、生真面目な作家的な印象。
  • 酒を飲んでご機嫌だとと箸で茶碗を叩き喜ぶが、会議などで機嫌が悪くボルテージが上がると机をドンドン叩いて怒る。
  • 意外と喜怒哀楽は激しいが生真面目ゆえの行動。
  • 運転手つきの黒塗りの車で駿台の地下駐車場に入り、エレベーターには警備員がつき、大臣なみの扱いであった。
  • 校舎内でソープの回数券をポケットから落として、それを拾った生徒が師に渡そうとしたら、「君にあげるよ」とおっしゃった。
  • 某師によると、和訳に関して、「サッカー」を「蹴鞠」、「テーブル」を「卓」、「キャリアウーマン」を「職業婦人」など、とにかく外来語は何でも日本語に直さなければ模試などでバツにする方針だったとのこと。よって某師によると伊藤師曰く、「オープンカフェ」は「道路に突き出たところに卓がある喫茶店」だったとのこと。
    • これは一種のジョークだろう。英文解釈教室での伊藤の訳例からちょっとひろってみるだけでも、ユーモア、ジャングル、サラリーマン、レール、ボートと外来語はすぐでてくる。
  • 受験英語の変化(長文の増加、主題される英文の内容の変化、記述式から客観式への変化など)にも敏感で、最晩年にいたるまで、たとえば長文に対処するにはどうするかなど、変化への対応を真剣に考えていた。決して、練習すればそのうち読むスピードもあがるからなんとかなる、といった類のことは言わなかった。「伊藤和夫の英語学習法」(駿台文庫)参照。
  • 自身の英文読解の方法も、よりよくするためにはどうすればよいかを常日頃考えていたそうで、そのことは英文解釈教室改正版の前書きやビジュアル英文解釈のあとがきなどをよんでもよくわかる。
  • ここまで著名でありながら、授業は単調で眠気を誘う物であり、発音は典型的な日本人英語であった。授業内容も英文解釈他の著書と重複することもあり、後期ともなると教室には空席が目立った。
    • しかしながら、授業は一切の無駄がなく洗練されており、師のこだわりが凝縮されていた。職人肌で完璧主義を感じさせるものがあった。
  • 1954年、山手英学院専任講師(英語科主任)。
    • 学生時代から15年勤務。
  • 1966年4月、奥井潔師の仲介で駿台高等予備校へ移籍。
  • 1979年、英語科主任講師。
    • 以後、専任講師として1995年度まで勤務。英語科主任、学校法人駿河台学園理事などを歴任。
  • 1997年1月21日、御茶ノ水の杏雲堂病院で死去。

授業 Edit

  • 雑談はほぼ挟まず、抑揚に乏しく終始淡々と授業を進める。
    • ので眠気を誘いやすい。
  • また、授業内容も英文解釈教室他の著書と重複する。
  • 良く言えば、授業は一切の無駄がなく洗練されており、師のこだわりが凝縮されていたもので、職人肌で完璧主義を感じさせるものがあった、ともいえる。
  • 晩年は後期ともなると教室には空席が目立った。
    • ヒデ師が言うには「授業はクソつまんなかった」そう。
  • 「物言わぬコンマが雄弁に語っているのであります」など、ウトウトしていると聞き逃してしまうようなレトリックやユーモアをサラリと挟んだりもする
  • その日の進度が終了するとチャイムが鳴る前に授業を終えるが、教室を出るためにドアのノブに手をかけるあたりでチャイムが鳴る。
    • ただし、クラスによって進度に差が出てしまい、本来のクラスに出席しなさいとおっしゃった年度もある。
    • 「私にだって感情や好不調の波はあるけれども、それを君たちに見せるのはよくないと考えている」*2
  • 抑揚のまったくない特徴的な喋り方をしていた。
    • 師の存命中は、大島師がよくまねしていたらしい。
    • クラスに一人は必ず師の物真似が得意な者がいた。「エハァン!」という師の独特な咳払いをいかに上手く適切なところに入れるかが鍵。
  • 英語の発音は完全な日本人英語であった。師自身も自覚しており、生まれた時代が悪かったといったようなことを著書の中で述懐している。
    • 例えばWhatを「ウォット」と発音していた。
  • 授業態度が悪いとかなりきつく怒ることもあったらしい。
  • また、思慮の浅い質問を嫌っていた。
    • 授業で話した内容と同じ内容を質問しようものなら、テキストを投げつけて怒ったあと、ちょっとした皮肉を交えながら対応したそう。
    • 教師というよりは、生真面目な作家的な印象で、真面目で勘の鋭い生徒を好んでいた。

担当授業 Edit


 英語教育史においても、貴重な史料となりますので、情報募集しています。

通期 Edit


 鈴木長十師主任時代は英文法・英作文も担当していた。

 英作文の教材作成、講義も担当していたことがある。*3
  • 英語構文演習A
    • お茶の水3号館・午前部理1α〜東大理系スーパー
  • 英語長文問題演習A
    • お茶の水アカデミー校・早慶大文系スーパー 1993年度
    • お茶の水3号館・東大理系スーパー 1993年度・1995年度(途中まで。代講は鳥飼和光師)
  • 英語長文問題演習B
    • お茶の水1号館・午前部文1β

春期講習 Edit

  • 入門英解
  • 英文解釈の整体術(カイロプラクティック)

夏期講習 Edit


入門英解演習

中級英解演習

英文解釈・読みから訳へ

冬期講習 Edit


中級英解演習

英文解釈のサミングアップ

直前講習 Edit

人物 Edit

  • 構文主義」と呼ばれる、駿台のみならず今や高校でも普通に行われている文法訳読法を最初に行った人物。
  • 「受験英語の神様」「受験英語界の巨人」「受験英語のキング・カズ」と呼ばれる。
    • 歴史に名を残す英語教育者であるが、英文学者でも英語学者でも翻訳家でもない、哲学出身の在野の予備校講師。「ザ・受験英語」のような存在で、生涯受験屋に徹した。
  • 英語科だけでなく、駿台そのものの基盤の確立にも貢献した。
    • 例えば教授資料を作成し全国で一定レベル以上の質の講義を行えるようにしたなど、今なお駿台のシステムとして残っているものも多い。
  • 風貌から、黒板消しの掃除職員と間違える生徒もいた。
  • 最後の授業となる1995年度直前講習「伊藤の英文和訳演習」が2講座増設されるなど最後の最後まで人気があった。
  • 駿台内外問わず師を尊敬する講師は多い
  • 今日で多く見られるような英作文の参考書を出さなかったのは、「不利な土俵で勝負はしたくないから」らしい(『竹岡広信の英作文が面白いほど書ける』はしがきより)
    • 「ネイティブに『こんな表現はない』と言われちゃおしまいだろう?」とのこと。当時若手であった竹岡師は自分の質問に実直に答えてくれた伊藤師にとても感銘を受けたという
  • 基礎学力を養うことの重要性は強調しつつも、各大学に特有な出題の形式があればそれに対応する考え方があるといい(伊藤, 1986)、問題本文を読まずに選択肢のみを読んで解くような方法も必ずしも否定してはいない(伊藤, 1995)。
  • 和訳に関して、とにかく外来語は何でも日本語に直さなければ模試などでバツにする方針だったと言われていた。
    • career womanは「職業婦人」hooligansは「蹴球の試合に現れる愚連隊」open cafeは「お茶を飲む卓が道路に突き出た喫茶店」だったとか。師ご本人はワインは「ぶどう酒」、カメラは「写真機」でも違和感を感じないとおっしゃっていた。パソコンも「個人電算機」だったとか。マウスとかキーボードはどうなってしまうのだろうか。
    • 久山道彦師が「おじいちゃんたち」といいよくネタにする。
    • しかし、これは有名な今井宏師のネタであって実際は外来語を柔軟に使う場面もあった。
    • 外来語の和訳については英文和訳演習に言及がある。
    • 福崎伍郎師がサスペンダーをしていた時に、「福崎君、そのズボン吊りは疲れないかね?」と訊いてきて、福崎師は「これはズボン吊りではなくて、サスペンダーって言うんですよ。」と答えると、伊藤師はさらに「では、そのサスペンダーというズボン吊りは疲れないのかね?」と訊いてきたという福崎師の鉄板ネタエピソードがある。
  • 英語教師ではあるが自身は英語を受験科目としては使わなかった。
    • 伊藤師が受験生だったのは太平洋戦争が最も激しかった時期で、旧制高校の入試史上唯一の受験科目から英語が削除された年であった。受験英語に一生を捧げるようになった師ではあるが、自身は入試科目で英語を受験せずに新制東京大学教養学部の前身校に入学したことになる。
  • 駿台に仲介した奥井師ら少数の優秀な講師と仲が良かったらしい。信頼できる人にしか心を許さないところがあったそうだ。
    • 親友の佐久間信師(成城大学教授)が1988年度前期途中に急死してから、ますます孤独の度合いを深めた。
      • 佐久間師の告別式では伊藤師が弔辞を述べた。
    • 新宿歌舞伎町の奥の飲み屋に秋山仁師とよく飲みに行ったらしい。
    • また、師の授業方針を批判していた表三郎師も、伊藤師の実力については認めており、仲も良かった。
      • 「戦うにも、からかうにも最高の相手」だったそう。友人というよりは、「戦友」という方が正しいか。
  • 喫煙者であった。質問に行くとまずはタバコをいっぷく吸ってから、「君は授業で何も聴いていなかったのか?」と言いつつも質問に答えていた。
  • 若き日の竹中太郎師が模試の試作問題をチェックしてもらいにいった際、伊藤師が長文の一行一行を指で滑らかになぞり、瞬時に内容を把握するのを見て驚いたのだとか。「僕の知っている中で一番英語が出来る人だった」と仰っていた。
  • 喜怒哀楽が激しかった。
    • 駿台文庫編集部が「英単語集を出したい」と言うと、「君たち、いったい何を考えているんだ」とテーブルをたたいて怒られた。*4
    • 酒を飲んでご機嫌だと箸で茶碗を叩き喜ぶが、会議などで機嫌が悪くボルテージが上がると机をドンドン叩いて怒る。
  • 派手なことは嫌いだが、子供っぽいところ(純真)があった。
  • 酒癖が悪かった。
    • 楽しいはずの酒宴の席で、職員達にしつこく理不尽な説教を続けて、前述の親友の佐久間信師にヘッドロックを食らい、涙目になったことがある。
    • 斎藤資晴師は、「大学時代には尊敬していた先生が、いざ同僚になってみたらまさかあんなに酒癖の悪いじじいだったなんて思いもしなかったよ。」と回想していた。
      • 会議中に酔い潰れた伊藤師から説教を受けた際、大島師と名前を間違えられたそう。「俺、大島じゃねぇし!」
  • サインを求めた学生に「僕はサインをするほどの人物じゃないから握手をしよう」とおっしゃった。
    • それを見て格好いいと思った仲本浩喜師が女子学生に「サインじゃなくて握手しよう」と言ったら「あっ大丈夫です」と言われたらしい(仲本師ツイッターより)。
  • 伊藤和夫師の寄付を元にした「伊藤・有馬記念基金」が設立されており、日本赤十字看護大学の看護学生へ奨学金が支給されている。
    • 生前の分を含めると寄付額はおよそ7億円にも及ぶという。
    • 学生から預かったお金なのだから学生にお返ししたい、という思いがあった。
  • 旺文社「大学受験ラジオ講座」も担当しており、担当講座は後にテープ教材や参考書にまとめられた。
    • 参考書は最近、復刊された。
    • 「しがらみで仕方なく」と担当することにあまり乗り気でなかったよう。
  • 今でも、Twitterの英語教育者の間で密かに「#伊藤和夫を読む会」というタグが使われている。
  • 山口紹師曰く、意図せずかしてかは不明だが、伊藤師の後継者は三師いるそうで、アカデミック的な後継者は大島保彦師、個人的な関わりを含む生き方の後継者は斎藤資晴師、英語の後継者は山口紹師だそう。確かにこのページを読むと分かるような気がする。
    • 大島師とは哲学的な対話が多く、斎藤師とは酒などの話が多く、山口者とは英語の話が多かったらしく、意図的に方向性の異なる話を三師それぞれと話していた可能性がある。
  • 英文の一字一句を過度に「意識化」して、教授法の「幼稚化」を行なった後継者は薬袋善郎師と言われている。

発言集 Edit

  • 「英文は、英文を読むことによってしか読めるようにならない」
  • 「ほんとうの意味で大人の英語を読めるようになるには、積み重ねたときに、身長と同じ高さになるぐらいの原書や英語雑誌を読まなければならない。ただし、それは大学生や社会人になってからやるべきで、受験時代には必要ない。受験用テキストの勉強によってそういった英語を読む下地を作るだけでじゅうぶんです」
  • 「えっと、このクラスは…」
  • 「これは基本文の~番で履修済み」
  • 「andがでたら、そこで腕を組んで考えろ、とボクは言いたいね。」
  • 「何と何を結ぶandなのか、特にandの前にコンマがあるとき。 andの後にコンマがあるのは諸君の英作文だけ。」
  • 「ボクも英文のペーパーバックはなかなか読めなかったね。途中まで読んで投げ出し、まだ他のを読んで投げ出し、の繰り返し。そしてやっと一冊読めたと思ったらば、また次の本で挫折。諸君もきっとそういう感じになるだろうね。」
  • 「ここの箇所は文頻のここに書いておいたから各自読むように。」
  • 「そこの君、授業中はテープレコーダいじらないように。」
  • 「英文を意味の通る日本語に訳せなくては理解したとは言えない」
  • 「変わり身の速さと視野の広さが英文を読むに当たって重要」
  • 「このthatを接続詞だと思った人は筋がいいんだけれども英語は筋の良し悪しで読めるものではない。thatのあとに主語と動詞が続いて完全な文になることがわかってはじめて『ああ良かった』と安心するんだ」
  • 「(浪人して)君たちは一年遠回りをした。だが、長い人生の中でそれがなんだと僕は言いたい。他人より学び苦しみ悩んだ分君たちは成長したんだ。自信を持って羽ばたいてもらいたい。大学、社会ではこの一年でやったどの問題よりも難しい課題が君たちを待っている。恋に悩み人間関係に悩み仕事に悩むことだろう。そんな時にはこの苦しんだ一年間を必ずや思い出して欲しい。なんてことはないと思えるはずだから。最後になるが二度とここには戻ってくるな。私は君たちの顔は見飽きた。頑張れ!」(通期最終講義)
  • 「物言わぬコンマが雄弁に語っているのです。」

著作一覧 Edit

学習参考書 Edit


≪以上が、生前の出版≫

≪以上が、生前の著作

一般書 Edit





*1 現・東京都立小石川中等教育学校
*2 齋藤孝・安住紳一郎著『話すチカラ』(ダイアモンド社、2020年2月)
*3 冨田豊(1997).「予備校教師・伊藤和夫氏」, 『現代英語教育』34(2), pp.18-19, 1997-05, 研究社.
*4 1997年5月26日産経新聞朝刊「受験のカリスマ」5